このところ、夕方までの作業が続きトレーニングはお休みしています。
昨日 11月2日(水)も夕方を過ぎて自宅に帰ると、ちょうど買い物の時間帯。
妻に同行して、買い物の”タクシーサービス”。
まあ、これはこれでいい一日です。
トレーニングは休みがちですが、「平日のアルコール抜き」(「ギコギコとアウターの対策/調整 完了…」)は、完全…とまではいきませんがボチボチやっています。
しかし、炭酸水をガブガブ飲んだ翌日は、お腹が張って体調も気分もあまり良くありません。
それを妻に伝えたところ、「ふーん、でもビールなら大丈夫なの?」と、冷ややかな反応。
うーん…
返す言葉がない…
しかし、なぜなんですかね、ビールならOKで、ただの炭酸水だとNGなのは?
ちょっと考えていましたが、一つ思い当たることがありました。
私はお酒を飲むと、少しお腹が緩くなる体質です。
このため、晩酌をした翌日は朝から快食快便。
少し飲み過ぎた日の翌日などは、緩くなり過ぎて下痢になるほど。
これに対して、ただの炭酸水。
「レモン果汁」なら少々入れていますが、アルコールはまったく入っていないので、どれだけ飲んでもお腹が緩くなることはありません。
緩くなるどころか、なぜか少々便秘気味になるような感じ。
ただでさえ少々便秘気味になるところに加え、炭酸ガスまで溜まってしまう。
そのため、お腹が張った感じになるのかな…
そんなことが思い当たりました。
それが本当の理由かどうかは分かりませんが、今度、炭酸水ではなく「ただの水」で試してみようと思います。
さて、秋も深まって11月を迎えました。
皆さんは、11月というと何を連想するでしょうか。
12月ならクリスマスだけど、11月は、とくに無いですかね?…
私たちの住んでいる地域、もしかすると金沢市を始めとした北陸地方の方はそうかもしれませんが、11月といえば「報恩講」という浄土真宗の行事を連想する方が多いかもしれません。
報恩講というのは、浄土真宗を開いた「親鸞」の、命日の前後に営まれる法要のことです。
私たちの地域では、「ほんこさん」と呼んでいます。
私が子供の頃には、曽祖父、祖母、父などが、まず檀家となっている浄土真宗のお寺に行ってお経を唱え、住職の説法を聞くことから始まっていました。
その後、住職が各地域の檀家の家にお経を唱えに来るのですが、同じ地域の檀家のお参りがすべて終わると、当番の家に集まって煮しめ等の料理を作り、皆で一緒に食べる(男たちはお酒も飲む)…という、非常に手間も時間もかかる一日がかりの行事でした。
現在では、「各自が、平日の朝一番でお寺にお金を納めに行く。その後、週末の土曜日に、住職が地域の檀家を一軒ずつ回ってお経を唱える10分ほどの行事」…という簡素な内容に変わっています。
それでも檀家の各家では、その準備として仏壇の掃除を行っています。
私も、小学校の頃から仏壇の掃除に駆り出されていました。
私の記憶では…
まず、曽祖父/父が仏壇の飾り物をすべて外し、それらを全部、仏間(…の畳の上に敷いた新聞)に並べます。
並んでいるすべてを磨いていくのですが、それがかなり大変。
最近は、ロウソク/線香に火を付けることは少ないと思いますが、私が子供の頃は、毎日の朝昼晩にロウソク/線香に火を付けて、曽祖父がお経を唱えていました。
このため、「ほんこさん」の頃には金色のメッキが煤で汚れ、まったく輝きが無くなっています。
これを、曽祖父や父と並んで座り、液体の金属磨き(ピ○ール)を使いながら一つ一つ磨きます。
仕上げは綺麗な布を使い、ピカピカになるまで拭きあげます。
最後に、仕上がった飾り物を仏壇に戻して、ようやく終わりです。
これ、一日がかりですし、腕や指に力を込めて磨くので、そこが疲れて痛くなるほど。
ただ、疲れはするのですが、小学生の私は、このピカピカに磨いていく時間がなんとなく「好きだった」印象があります。
その頃から、「メッキ部分をピカピカにする」衝動に駆られていたのかもしれません。
あるいは、(とくに話をする訳でもありませんが…)仏間で磨きものをしている静かな時間を、曽祖父や父と一緒に過ごすことが嬉しかったのかもしれません。
輝きを取り戻した仏壇を見て、なんとなく「満足した」…と感じることを、曽祖父や父とも共有していた気がします。
しかし私の代になって、この仏壇を掃除する作業も変わりました。
自宅の仏壇を、先祖代々の厨子型の大きなものからモダンタイプの小さなものに買い替えた(「とししゅん にはなれない…」)ことで「飾り物」がなくなっており、掃除と言っても仏壇の表面に溜まったホコリを拭くだけ。
なので、今となっては、子供たちに手伝ってもらうこともありません。
まあ、これも簡単になったと考えれば「良いこと」なんですけどね…
面倒で手間のかかることが、どんどん簡素化されています。
また、不便だったことが改善され、簡易に行えるようになっています。
その流れは変わることはないでしょう。
しかしその反面、地域の方々はもちろん、家族の繋がりも希薄になっていく。
簡素化/簡易化されて、何事も容易/便利に行える。
しかし、それは、人間にとって本当に幸せなことなのか…
そんなことを、ちょっと考えてしまいました。