今日 6月19日(土)は、111歳の天寿を全うした祖母の四十九日の法要でした。
今日は、金沢は夜明け前からの強い雨。
ごく近しい親族の方々に集まってもらい、自宅の小さな仏壇(伝統的な仏壇ではなく家具調の仏壇)と、お骨を置いている小テーブルの前で、お坊さんにお経をあげてもらいました。
ただ、強い雨が降っていることもあり、その時点での親族全員での納骨は諦めました。
雨が上がってから、息子と二人でお墓に行き、納骨を済ませました。
さて、法要のお経が終わりお坊さんが帰ってから、姪(姉の次女)の次女である小学2年生のKちゃんから、つぎの質問がありました。
「おじちゃん、どうして四十九日って、お参りするの?」
うーん、それは…
「さっきまでいた、お坊さんに聞いてほしかった」…とも言えないので、つぎのような話をしてみました。
私: 人が死ぬと、死んだ日から始めて、7日ごとにお参りをします。
Kちゃん: えー、私はお参りに来てないよ。
私: そうだね。その7日ごとのお参りは、おじちゃんの家族だけでやった。
Kちゃん: そうなんだ。
私: それは、7週間続くんだよ。
Kちゃん: けっこう長いね。
Kちゃん: そして、最後の7週間目はみんなでお参りして、お骨をお墓に入れます。
Kちゃん: ふーん。
私: Kちゃん、九九って習った?
Kちゃん: うん、習った。
私: 7日ごとに7週間。九九で「しち・しち」は?
Kちゃん: しじゅうく!
私: そう。だから「四十九日」はお骨をお墓に入れるお参りなんだ。
Kちゃん: そうか、分かった!
仏教的な意味はともかく、日数の意味は分かってもらえたようです。
亡くなって四十九日目。
その日には裁きを受けて、許された人のみが極楽浄土に行くそうです。
111歳の天寿を全うした祖母には、約束された極楽浄土。
一方の私といえば、煩悩全開。
迷ってばかりで、悟りを開いて明鏡止水…といった心境には程遠い毎日です。
ただ私自身は、煩悩/迷いの真っ只中で、格好悪いかもしれませんが「精一杯もがく」ことにも意味があると思っています。
悟った自分を周囲に見せたい…そんなときもあります。
しかし、悟ってもいないのに、変に格好をつけて悟った「ふり」をしてしまっては、「迷う/悩むという経験を通し、自分を成長させるチャンスを失うかもしれない」と感じます。
ただ、自分でも「みっともない、格好悪い、心が狭いなぁ」…と思うときがありますね、正直に言えば。
今、格好悪く「もがいている」私を見ている子供たち。
子供たちが大人になったときに、格好悪かった私を思い出してどう思うか。
私自身の成長ではなく、「子供たちがどう思うか」の方が重要…なのかもしれないですね。
ロードバイクに乗っていても、かつて、オートバイに乗っていたときも、なぜか他の人との競い合いに強い興味を持ってしまう。
そんな風に、悟りの境地には遠い私。
極楽浄土というよりも、もうしばらくは修羅の道を行くしかないようです。