昨日 7月13日(水)は、夕食の準備を行う必要はありませんでしたが、夕方から妻の買い物に付き合ったため、やはりトレーニングはお休みしました。
このところの連日の猛暑の後の雨模様のせいなのか、妻の体調が少々すぐれません。
一昨日は完全に寝込んでしまい、仕事もお休みしました。
昨日はずいぶん良くなって仕事には行っていますが、仕事から帰ってきてまた買い物に出かけるのは、車の運転も含めてまだ負担が重いような感じです。
なので、私が運転をして一緒に行くことにしました。
スーパーでは、私がカートを押しながら付いて回っているのですが、「あっ、あれがいい。これもいい…」と言って品物を手に取っていると、妻は少々迷惑顔。
「どうして付いてくるの? 買い物に、あれこれ口を挟まないでちょうだい!(笑」
「はい…」
少しは元気も出てきたかな。
まあ、これはこれで、いいでしょう。
このところ、色々なことがあってローラーをサボりがちです。
ちょっとよろしく無いですね。
チャレンジの夏。
これを忘れずに、この後は頑張りたいと思います。
さて、ここ10数年ほどで、家族を含めて私の周り/環境は大きく変わりました。
父母とは別居して、自分の家を建てたこと。
父の病をきっかけに、一旦同居のために実家に戻ったこと。
父が亡くなり、そして母が亡くなって、また自分の家に帰ってきたこと。
その際に、父が40年前に建てた実家を壊したこと。
実家にあった大きな仏壇を処分して、モダン/小型な仏壇に変えたこと。
それらの流れの中で、勤めていた会社を辞めて独立したこと。
とくに、父が建てた実家を壊したこと、そして実家にあった大きな仏壇を処分したことについては、一部の親戚の方からお小言をいただきました。
「お前のお父さんが建てた家なんだぞ」
「その家を壊して、仏壇はどうするつもりなんだ」
「小さい仏壇にするって、先祖代々のものはどうするんだ」
40年前に父が建てた家は、広い玄関、そこから続く廊下があって、座敷、仏間、控えの間等がある、いわゆる昔ながらの家。
私が建てた家よりも大きく、そして、おそらく費用もかかっていたんでしょう。
しかし、実際に住んでみての快適さは、やはり新しい家(私が建てた家)の方が圧倒的に上です。
それと仏壇ですが、先祖代々の仏壇は、幅が一間程度の大きな厨子型のもの。
中の装飾には金箔が貼ってあり、阿弥陀如来や法名を書いた大きな掛け軸が下がっている立派なものです。
しかし、私の家にはそれを置く場所がありません。
心は痛みますが、それは処分することに。
代わりにモダン型のな小さな仏壇を求め、リビング畳コーナーの角に置きました。
「お父さん、お母さんは泣いているんじゃないか?」
痛いところを突かれました。
うーん、そうかもしれない…
そう思いながらも、私は「自分でできる精一杯をやっているだけ」と答えます。
じゅげむとして中古のキャンピングカーを購入しましたが、その保管場所として考えていたのは、じゅげむの納屋。
しかし、そのまますんなんりは入らず、荷物の整理が必要となりました。
荷物の整理のために、屋外にイ○バ物置を設置して荷物の整理をすることにしたのですが、かつて父が購入して大事に使っていた大型の道具/機械はやり場がない。
これは、やはり処分するしかありません…
ただ、処分すると決心したタイミングで、かつて家&仏壇の件でお小言をいただいたことが頭がよぎります…
そのときに、ふと「杜子春」という話を思い出しました。
芥川龍之介の書いた短編小説、「杜子春」。
中国の都、大きな門の下。
そこに、裕福な家に生まれたが、遊び暮らして今は貧しい青年、杜子春が立っている。
そんな杜子春の前に、峨眉山に住む仙人 鉄冠子が現れる。
仙人はお金をいっぱい、しかも何度もくれた。
しかし杜子春は、その度に遊び暮らすことを繰り返してしまい、人間不信にも陥る。
人の世が嫌になった杜子春は、仙人に弟子にしてほしいとお願いする。
仙人は杜子春に、「何があっても口をきくな」という試練を与える。
杜子春は試練に耐えるが、地獄に落ちている両親が、いまだに自分を思ってくれていることを知る。
そして思わず「お母さん」…と叫んでしまう。
そこで仙人の術が解け、すべて幻だったことがわかる。
そして杜子春は、この先、人として真っ当に暮らすことを誓う。
杜子春は若い頃に遊び暮らしていましたが、だんだんと成長して真っ当な人間になりました。
対して私は、(お小言をいただいた方の、私に対する印象は…)杜子春とは逆で、だんだんとダメになっていく。
おそらく、そう見えている…
父の形見のような機械を処分する決心をして、つぎの事業展開を考える。
そんなダメな私でも、本当は心の中で、「ゴメン」…と思ってます。
しかしそれは表に出さず、先のことを考えているポーズを崩さない。
今は、そのスタンスで行く…そう思っています。