昨日 12月24日(金)も、トレーニング/軽い運動はお休みです。
ちなみに、昨日はクリスマス・イブ。
夕方からはホームパーティの準備で、妻と一緒に買い出しに行っています。
購入したものは、次女が通っている調理師専門学校に頼んでいたオードブルを2種類。
シャンパン & ワイン。
フランスパン & チーズ。
いやー、美味しく頂きました。
写真のオードブルですが、さすが調理師専門学校で作ったもの。
スーパーの「揚げ物/惣菜の詰め合わせ」といったオードブルとはまったく異なります。
次女も含め、生徒さんたちが自分たちで考え/作った内容で、とってもおしゃれで味もバッチリです。
一方、シャンパン/ワインはどちらも行きつけのスーパーで買った比較的お安いもの。
それでも、我が家にとっては十分。
こちらも堪能しました。
ちなみに、未成年の長男はシャンメリーですよ、もちろん。
キリスト教徒ではない我が家でもパーティを行っていますが、そもそもクリスマスは、キリスト教の新約聖書(福音書)、「ベツレヘムの馬小屋で、処女マリアから、イエスが生まれた」…という内容に基づいています。
これには、「唯一絶対の神、神の子としてのイエス、精霊」、この三つが不可分で一つであるという考え方(「三位一体」と呼ばれています)にもつながっていて、これらを「信じるか、信じないか」は、それこそキリスト教の教義に関するとても微妙な問題だと認識しています。
なので、その点については深くは触れません。
「処女の女性が懐妊/出産する」ということは、科学的・合理的に考えれば、まあ、あり得ません。
ただキリスト教ではそれが教義の一部となっているため、「信じるか、信じないか、それはあなた次第」…ということになります。
旧約聖書の「創世記」には、天地創造の話もあります。
どんな宗教にもある「世界/国が生まれる物語=神話」として、それを理解することはできますが、それが科学的・合理的に「正しい」とは、やはり考えていません。
キリスト教に限らず、どの宗教にも教義/教えがあり、それぞれがユニークな存在です。
しかし、ここ最近の投稿で触れている「ヨブ記」については、それに近い内容が(キリスト教ではない)仏教・浄土真宗の経典にもあります。
それは「仏説無量寿経」そして「歎異抄」です。
阿弥陀仏は、本質的には悪人でしかないすべての人=「衆生」を救済すると説いているそうです。
また、歎異抄の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という文言は有名です。
阿弥陀経では、もともとが「悪人」である人は、阿弥陀仏の力によってのみ救済されると説いています。
なので、「善い行いをして、救われよう」とすることは、阿弥陀仏の救済の力を疑うことになる…そう考えられているようです。
→ この考え方は、ヨブ記においてサタン(検事)が神に対して行う告発、「ヨブは、神からの恵み=ご利益…をあてにして善い行いをしているだけだ」という内容に、かなり近い気がします。
また、「善い/悪い」という判断も、それぞれの人の勝手な基準に基づいていて、阿弥陀仏の視点から見て正しい訳ではない…ということのようです。
→ この概念も、ヨブ記において、「ヨブの考えは 到底 神には及ばず、自分が正しいとするのは思い上がりだ」としていることに、やはり近い気がします。
私の勝手な印象ですが、「歎異抄」と「ヨブ記」は、救いや善悪の考え方に何か通じるものがあるように感じます。
生きているすべての人には煩悩/欲がある。
なので、人はみな完全な善人ではあり得ず、何某か悪い行いを行っている=悪人である。
(もちろん私も、悪人の一人です)
それでも、その時々の全力を尽くし、一所懸命に生きよう。
これが、今年のクリスマス・イブに、私が思ったことでした。
追伸
サンタです。
クリスマス・イブの深夜、というか、クリスマスの未明 2:30。
サンタは、準備していたプレゼントを、家族全員の枕元に、そっと配ることができました。
ただし、長女はまだ起きていて部屋の電気がついたまま…
「早く寝なさい」という言葉をかけて電気を消し、そのときに分からないようにプレゼントを置いてきたつもり。
朝起きると、家族からは「お父さん、プレゼントありがとう」と言われます。
「いや、サンタさんだから…」
もう、サンタの役目も終わり…ですかね。