「ヨブ記」って…

今日 12月22日(水)もトレーニングはお休みです。

 

昨日の投稿「ダイバーシティ…」では、夜の会合が終わってから「軽い運動」をすると書きましたが、別の都合(飲食じゃないですよ…)が入ったため、それもお休みとしました。

 

ただ会合では、投稿に書いた通り「婦人会」に関する提言があったことを伝え、提言の内容をまとめた婦人会 会長宛の手紙を託してきました。

どんな回答がもらえるかはわかりませんが、提言をいただいた方には、それを伝えようと思います。

 

クリスマス明けには、軽い運動を始めたいと思います。

 

 

さて、今週末の25日(土)はクリスマス、そして前日の金曜日はクリスマス・イブです。

私の家は、一応、浄土真宗・大谷派の檀家でありキリスト教徒ではありませんが、クリスマス・イブの日は、家族でのホームパーティを予定しています。

 

「一応」…と書いているのは、檀家として毎年お寺にお金は納めていますが、とくに信心深いということではなく、親族の法要があれば住職の方にお会いする/お経を読んでもらう程度です。

地獄/極楽、輪廻転生…などというものも、概念や物語としては理解できますが、信じている訳では無いですね。

まあ、一般的な日本人は、概ねそんな感じでしょうか…

 

そんなキリスト教徒ではない私も、なぜか、歴史的観点から見たイエス、それと、聖書の「ヨブ記」については、(社会人になって数年が経った頃だったかな…)とある本にちょっと書かれている内容を見て興味を持ち、それがきっかけで色々調べたりしていました。

 

歴史的観点から見たイエスは「ナザレのイエス」と呼ばています。

キリスト教の教義に基づく「神の子 イエス」とは異なり、歴史的な観点から「イエス」の経歴を検証する…という感じです。

 

ヨブ記は旧約聖書の中にあるものです。

内容としては、「因果応報というものはない」…言い換えると「良い行いをすれば良いことが起こり、悪い行いをすれば悪いことが起こる…とは限らない」、あるいは「善良で正しい人にも悲劇や苦難が待ち受けていることがある」ということが書かれています。

 

この世には理不尽な悲劇/苦難もある、それを受け入れよう…

初めてその内容を知ったときには、ちょっと衝撃を受けました。

 

仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など「宗教」には色々なものがありますが、私がそれまで持っていた宗教のイメージ/理解は、つぎのようなものです。

 

人間は、色々なことに迷い、悩みながら生きて行く。

宗教とは、そんな「迷っている自分」対して「考え方/哲学」を提示してくれるものであり、迷っている心を救ってくれるものである。

 

今でも、これはある意味正しいと思っています。

しかしヨブ記は、それを読んでも「迷っている自分」を救ってくれることが書かれていない…そんな印象を持ちました。

 

宗教の経典「旧約聖書」の一部であるにもかかわらず、ヨブ記には「救われないこと」が書かれている…

それが衝撃でした。

 

翻って…

煩悩/欲にまみれている私。

 

私はキリスト教徒では無いですが、「救いがない」ことを理解しながらも信仰を保つ…そんなことは、とてもできるような気がしません。

キリスト教徒の方々は、ヨブ記をどんな風に理解しているのでしょうか…

  

「えーっ、無理…」と、考える機会を与えること。

そのこと自体が、旧約聖書にヨブ記がある理由なのかも…ですね。

 

追伸

高校生の頃、倫理・社会の授業において、先生から以下のキーワードが示されたのを憶えています。

 

仏教は「慈悲」。
キリスト教は「愛」。

 

そうか、「慈悲」と「愛」か。

 

うーん、できるかなぁ…

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