準備完了…

昨日 12月28日(火)は会社の御用納め。

仕掛かりのものを片付けて、大掃除(という名の小掃除)をして今年はおしまいとなりました。

 

やはり28日が年内の最終営業日だったスポーツサイクル・イシノさんに行くと、今年2021年にライドで出かけた先、来年2022年にライドで行きたいところの話で盛り上がりました。

 

今年、チームじゅげむでは、「走行距離 100km、獲得標高 800m 」程度の、トランポ前提の温泉ライドを行いました。

温泉ライド、最高でした。

来年のチームじゅげむでは、「走行距離 150km、獲得標高 1,000m」程度の、トランポ/遠征の温泉・極楽ライドを行いたいものです。

「極楽」が付くということは…そう、日帰りではなく、一泊です。.

みなさん、どんなものでしょうか…

 

さて、明日は、私の親戚に配るため、そしてチームじゅげむの希望者(ほか少々の方)の楽しみのための「餅つき大会」を予定しています。

 

餅つき大会のために購入した餅米は、1.5kg(1升)の袋を35個(35升)!

普通の米(うるち米 4升)を合わせて使う餅もつくため、使うお米は都合39升。

餅をつく回数(臼数)も多く、なんとビックリ 21回(21臼)。

 

これだけの臼数の餅をつくので、その準備も大わらわ。

今日は朝8時からほぼ全力で取り組み、夜の6時半でようやく準備完了となりました。

餅つき 準備完了!

 

さあ、明日は朝4時起き。

簡易タープを張り、灯油バーナー 2台に火をつけて寸胴なべでお湯を沸かし、お湯が沸騰しだい4段のセイロで餅米を蒸します。

 

できれば7時前から餅つきを開始したいと思っていますが、さて、段取り通りうまく行きますかどうか…

 

その結果については、あらためて報告したいと思います。

久々の運動…

昨日 12月26日(日)、金沢は今シーズン初めての積雪となりました。

私も昨日の朝は5時に起きて、さっそく除雪を行いました。

おかげで、今日は筋肉痛で始まっています…

 

昨日の除雪ですが、まずは家の前の道路。

家の前の道路

手前左側の道路から三叉路の交差点、そして右側のお宅の前から奥側に向けての直線道路を除雪します。

 

そして家の後ろ、納屋の前の道路。

家の後ろ(納屋の前)の道路

手前から奥に向けての直線道路(交差点まで)、および手前左側の納屋前を除雪します。

 

この面積を、人力(1馬力)で除雪するのはかなりの重労働。

そこで頼りになる相棒は…

小型除雪機 FUJII SA708M

これです。

 

この小型除雪機は、亡くなった父が、おそらく15年ほど前(もうちょっとかな… → 18年前だそうです!)に購入したものです。

車庫に保管していたので外装は綺麗なままですが、ガソリンタンクがサビだらけ。そして、そのサビがホース・キャブに詰まってしまいエンジンがかからない状態に…

昨年2020年の大雪ではこれを使えませんでしたが、今年はガソリンタンク、キャブ、ホースを交換してバッチリ。

期待通りの大活躍をしてくれました。

 

ただこの除雪機は、やっぱり小型。

自分自身の重さがない(軽い)ため、ローター部分に当たる雪の量が増えてくると、雪の上っ面を削るだけになってしまいます。

このため、腕、腰を使って、先端部分を下に押し付けながら前に進む必要があるんですが、この「下に押し付ける」作業が、レバーを握っている腕、足、腰に来るんですね…

 

昨年はこの小型除雪機が故障で使えなかったため、修理中の代替機として、以下の大型除雪機を借し出してもらいました。

昨年借りた大型除雪機

いやー、こうして写真を見るだけで迫力を感じます。

見た目の迫力通り、馬力・除雪できる量、音などは、確かに「大型」。

それに、自分の重さで突き進んでくれるため下に押し付ける必要はないし、大柄なのに小回りも効く。

「とても使い勝手が良かったんだな…」と、あらためて認識をしました。

 

 

手持ちの小型除雪機の活躍だけではなく、妻と長男、そしてご近所さん総出のご協力もあって、写真の通り、道路は綺麗な状態になりました。

私も、久々の運動、そして筋肉痛を楽しみました。

 

 

さて、明日の朝にかけて、北陸は引き続き積雪があるとの予報。

平野部でも、多いところでは更に30cmほど積もるとのこと。

えーっ…

 

運動不足の解消にはなりますが、雪はもういいです…

善人・悪人…

昨日 12月24日(金)も、トレーニング/軽い運動はお休みです。

 

ちなみに、昨日はクリスマス・イブ。

夕方からはホームパーティの準備で、妻と一緒に買い出しに行っています。

 

購入したものは、次女が通っている調理師専門学校に頼んでいたオードブルを2種類。

シャンパン & ワイン。

フランスパン & チーズ。

イブのホーム・パーティ

 

いやー、美味しく頂きました。

 

写真のオードブルですが、さすが調理師専門学校で作ったもの。

スーパーの「揚げ物/惣菜の詰め合わせ」といったオードブルとはまったく異なります。

次女も含め、生徒さんたちが自分たちで考え/作った内容で、とってもおしゃれで味もバッチリです。

 

一方、シャンパン/ワインはどちらも行きつけのスーパーで買った比較的お安いもの。

それでも、我が家にとっては十分。

こちらも堪能しました。

 

ちなみに、未成年の長男はシャンメリーですよ、もちろん。

 

 

キリスト教徒ではない我が家でもパーティを行っていますが、そもそもクリスマスは、キリスト教の新約聖書(福音書)、「ベツレヘムの馬小屋で、処女マリアから、イエスが生まれた」…という内容に基づいています。

 

これには、「唯一絶対の神、神の子としてのイエス、精霊」、この三つが不可分で一つであるという考え方(「三位一体」と呼ばれています)にもつながっていて、これらを「信じるか、信じないか」は、それこそキリスト教の教義に関するとても微妙な問題だと認識しています。

なので、その点については深くは触れません。

 

「処女の女性が懐妊/出産する」ということは、科学的・合理的に考えれば、まあ、あり得ません。

ただキリスト教ではそれが教義の一部となっているため、「信じるか、信じないか、それはあなた次第」…ということになります。

 

旧約聖書の「創世記」には、天地創造の話もあります。

どんな宗教にもある「世界/国が生まれる物語=神話」として、それを理解することはできますが、それが科学的・合理的に「正しい」とは、やはり考えていません。

 

 

キリスト教に限らず、どの宗教にも教義/教えがあり、それぞれがユニークな存在です。

しかし、ここ最近の投稿で触れている「ヨブ記」については、それに近い内容が(キリスト教ではない)仏教・浄土真宗の経典にもあります。

それは「仏説無量寿経」そして「歎異抄」です。

 

阿弥陀仏は、本質的には悪人でしかないすべての人=「衆生」を救済すると説いているそうです。

また、歎異抄の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という文言は有名です。

 

阿弥陀経では、もともとが「悪人」である人は、阿弥陀仏の力によってのみ救済されると説いています。

なので、「善い行いをして、救われよう」とすることは、阿弥陀仏の救済の力を疑うことになる…そう考えられているようです。

→ この考え方は、ヨブ記においてサタン(検事)が神に対して行う告発、「ヨブは、神からの恵み=ご利益…をあてにして善い行いをしているだけだ」という内容に、かなり近い気がします。

 

また、「善い/悪い」という判断も、それぞれの人の勝手な基準に基づいていて、阿弥陀仏の視点から見て正しい訳ではない…ということのようです。

→ この概念も、ヨブ記において、「ヨブの考えは 到底 神には及ばず、自分が正しいとするのは思い上がりだ」としていることに、やはり近い気がします。

 

私の勝手な印象ですが、「歎異抄」と「ヨブ記」は、救いや善悪の考え方に何か通じるものがあるように感じます。

 

 

生きているすべての人には煩悩/欲がある。

なので、人はみな完全な善人ではあり得ず、何某か悪い行いを行っている=悪人である。

(もちろん私も、悪人の一人です)

 

それでも、その時々の全力を尽くし、一所懸命に生きよう。

 

これが、今年のクリスマス・イブに、私が思ったことでした。

 

 

追伸

サンタです。

クリスマス・イブの深夜、というか、クリスマスの未明 2:30。

サンタは、準備していたプレゼントを、家族全員の枕元に、そっと配ることができました。

 

ただし、長女はまだ起きていて部屋の電気がついたまま…

「早く寝なさい」という言葉をかけて電気を消し、そのときに分からないようにプレゼントを置いてきたつもり。

 

朝起きると、家族からは「お父さん、プレゼントありがとう」と言われます。

 

「いや、サンタさんだから…」

 

もう、サンタの役目も終わり…ですかね。

炊飯ジャーの蓋

今日 12月23日(木)も、トレーニング/軽い運動はお休みです。

 

右足首のアキレス腱は、もうずいぶん良いような感じです。

ただスクワットまでは行きませんが、蹲踞(そんきょ)のような感じで足首に力がかかると、外側靭帯には違和感、前側の腱の部分に圧迫感があります。

そしてそのまま数分間同じ姿勢をとり続けると、とうとう痛みが出てきます。

 

違和感がある/痛い部分も、生活している限りは動かさない訳にはいきません。

やはり足の怪我は、完全に元通りにするのは難しいんですね…

 

クリスマスまで待っても違和感/圧迫感は消えず、この先ずっと、痛みとも上手く付き合って行くしかないかな…そう思い始めました。

ちょっと残念ですが、これは諦めるしかないと覚悟をしました。

 

ただし、諦めて自転車に乗れなくなることを受け入れる…というつもりはありません。

 

 

昨日の投稿 「ヨブ記って…」 では、旧約聖書のヨブ記(「救われないこともある」という内容の書)を紹介しました。

「この世には理不尽な悲劇/苦難もある、それを受け入れよう」

 

「えーっ、そんなの無理…」

 

良くないことがあればその原因を探し、それを修正して良い状態に変えていく。

原因が自分にあれば、自分の考え方/行いも変えて、良い方向に向かうようにする。

煩悩/欲がいっぱいの私は、やっぱり、そう考えてしまうに違いありません。

 

たとえば、私の右足首の状態。

これは、元々は私のロードバイクでの不注意/無理が原因で起こったことです。

できれば元通りの、違和感/痛みのない右足首の状態に戻したい…しかし、もうそれは無理のようです。

 

その状況でも、ロードバイクに乗ることは諦めない。

違和感/痛みと上手く付き合う方法を探して、できるだけ元通りのパフォーマンスを出せるようにしたい。

仮に元通りのパフォーマンスは望めないとしても、その中でも、少しでも速く/少しでも遠くまで走ることができるように工夫したい。

やっぱり、そうすると思います。

 

その「もっと速く/もっと遠くに」…という感情は「向上心」とも言える気がしますが、それも、まあ、煩悩/欲なのでしょう。

 

「もっと欲しい」と思っているものが手に入らないからこそ人は苦しむ(仏教で言う「求不得苦」)という面はありますが、それも生きる活力の一部なのではないかと、私は思います。

 

この煩悩/欲を捨て、言ってみればの「悟りの境地」に至ることは、私には到底できそうにありません。

煩悩/欲に悩んで、もがきながら生きて行くことしかできない…そう思っています。

 

 

さて、「悟りの境地」という観点で一つ…

 

今朝、朝食のとき、妻が「炊飯ジャーの蓋が開かない」と言いました。

 

家の中の道具/家電等で不都合な現象や症状が起こると、原因や背景は二の次で、まずは私にヘルプが来ます。

まあ、「頼りにされている」という言い方もできますかね…

 

実は、炊飯ジャーの蓋の不具合(閉まらない/開かない)は今日が最初ではなく、これまでも四回ほど起きています。

その都度、炊飯ジャーを確認すると…

・カチカチの米粒がヒンジ/フック等に付いている
・カチカチの米粒が内釜の裏/蓋の周囲に付いている
・スチーム発生の水受けが空っぽで加熱で変形している

という感じで、私から見ると、せっかくの高機能/高価な炊飯ジャーなのに、それを丁寧に使っていない印象です。

とくに、蓋が上手く閉まらないときも力ずくで閉めていたようで、そのためにどこかが歪んでしまっており、現時点で、すでに指で押しつけないと内釜がすんなり収まらなくなっています…

 

さすがに今日は、私もややうんざりした感じで対応してしまいました。

それでもなんとか蓋を開け、一言。

「無理やり閉めたらダメ。それから前も言った通り、水受けにもたっぷり水を入れてよ…」

 

妻は、私からの注意を「お小言」と受け取ったようで、少々ご不満の様子。

子供たちがそれを敏感に感じ取り、私が、妻を怒っていると認識します。

そして今度は、子供たちが、私を怒ります。

しかし子供たちは、「炊飯ジャーの蓋」問題が何回も繰り返されていることを知りません…

 

この状況で

・うんざりした対応をしない
・注意を聞いてくれなくても気にしない
・子供たちから怒られても受け流す

…というのは、私にはちょっと難しいです。

それだと、「私って何なんだ」と思ってしまいそうです。

 

 

本当は、「悟りの境地」あるいは「ヨブ記」のように、すべて受け入れないといけないのかも。

それが「慈悲」や「愛」である..そういうことかもしれません。 

 

でもそれは、正直言って、キビシイなぁ…

 

追伸

妻に頼まれた訳ではないですが、蓋/内釜は歪んで壊れてしまった…と判断し、新しい炊飯ジャーを買ってきました。

同じメーカー/同じ高機能モデルの最新型。

 

ただこれは、「慈悲」や「愛」ではない…と言われてしまいますね、きっと。

 

それは分かっていますが、それでも、これで気まずい雰囲気を変えれれば良い…

凡夫の私は、そう思います。

「ヨブ記」って…

今日 12月22日(水)もトレーニングはお休みです。

 

昨日の投稿「ダイバーシティ…」では、夜の会合が終わってから「軽い運動」をすると書きましたが、別の都合(飲食じゃないですよ…)が入ったため、それもお休みとしました。

 

ただ会合では、投稿に書いた通り「婦人会」に関する提言があったことを伝え、提言の内容をまとめた婦人会 会長宛の手紙を託してきました。

どんな回答がもらえるかはわかりませんが、提言をいただいた方には、それを伝えようと思います。

 

クリスマス明けには、軽い運動を始めたいと思います。

 

 

さて、今週末の25日(土)はクリスマス、そして前日の金曜日はクリスマス・イブです。

私の家は、一応、浄土真宗・大谷派の檀家でありキリスト教徒ではありませんが、クリスマス・イブの日は、家族でのホームパーティを予定しています。

 

「一応」…と書いているのは、檀家として毎年お寺にお金は納めていますが、とくに信心深いということではなく、親族の法要があれば住職の方にお会いする/お経を読んでもらう程度です。

地獄/極楽、輪廻転生…などというものも、概念や物語としては理解できますが、信じている訳では無いですね。

まあ、一般的な日本人は、概ねそんな感じでしょうか…

 

そんなキリスト教徒ではない私も、なぜか、歴史的観点から見たイエス、それと、聖書の「ヨブ記」については、(社会人になって数年が経った頃だったかな…)とある本にちょっと書かれている内容を見て興味を持ち、それがきっかけで色々調べたりしていました。

 

歴史的観点から見たイエスは「ナザレのイエス」と呼ばています。

キリスト教の教義に基づく「神の子 イエス」とは異なり、歴史的な観点から「イエス」の経歴を検証する…という感じです。

 

ヨブ記は旧約聖書の中にあるものです。

内容としては、「因果応報というものはない」…言い換えると「良い行いをすれば良いことが起こり、悪い行いをすれば悪いことが起こる…とは限らない」、あるいは「善良で正しい人にも悲劇や苦難が待ち受けていることがある」ということが書かれています。

 

この世には理不尽な悲劇/苦難もある、それを受け入れよう…

初めてその内容を知ったときには、ちょっと衝撃を受けました。

 

仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など「宗教」には色々なものがありますが、私がそれまで持っていた宗教のイメージ/理解は、つぎのようなものです。

 

人間は、色々なことに迷い、悩みながら生きて行く。

宗教とは、そんな「迷っている自分」対して「考え方/哲学」を提示してくれるものであり、迷っている心を救ってくれるものである。

 

今でも、これはある意味正しいと思っています。

しかしヨブ記は、それを読んでも「迷っている自分」を救ってくれることが書かれていない…そんな印象を持ちました。

 

宗教の経典「旧約聖書」の一部であるにもかかわらず、ヨブ記には「救われないこと」が書かれている…

それが衝撃でした。

 

翻って…

煩悩/欲にまみれている私。

 

私はキリスト教徒では無いですが、「救いがない」ことを理解しながらも信仰を保つ…そんなことは、とてもできるような気がしません。

キリスト教徒の方々は、ヨブ記をどんな風に理解しているのでしょうか…

  

「えーっ、無理…」と、考える機会を与えること。

そのこと自体が、旧約聖書にヨブ記がある理由なのかも…ですね。

 

追伸

高校生の頃、倫理・社会の授業において、先生から以下のキーワードが示されたのを憶えています。

 

仏教は「慈悲」。
キリスト教は「愛」。

 

そうか、「慈悲」と「愛」か。

 

うーん、できるかなぁ…