想定された中で…

今日は、6月26日(木)。

実は週始めの23日(月)、98歳を迎えたお義父さん(妻の父)が入院をしてしまいました。

 

月曜の朝一番。

お義父さんは、お腹に少し痛みを感じたそうです。

少し痛みはありましたが、普段通り朝食/昼食を食べ自宅で過ごしていました。

しかし午後になって急激にお腹が痛くなり、体も震えてきた…

ということで、夕方になり自分で119番にTEL。

そのまま救急車で総合病院に運ばれました。

  

総合病院に運ばれた時点で、救急隊員の方から妻の携帯に電話がありました。

電話を受けたのは、妻と私が亡くなった叔母さんの初七日のお参り(「ボッチの夜…」)を終えたときでした。

お参りを終えて、妻と私は家に帰る予定でしたが、そのまま総合病院に直行しました。

 

 

妻と私も病院に到着して、救命救急センター/処置室に向かうと、お義父さんは検査に行っているとのこと。

諸々の検査が終わった段階で、外科の先生(担当医)からお義父さんの状況について、以下の説明がありました。

 

まずは、急性虫垂炎(盲腸)であると診断ができました。

ただし、腫れている盲腸の近く(盲腸のすぐに上で、小腸と繋がっている部分の直前)に気になるモヤモヤしたものが見えます。

色々なことが想定されるため、このまま急性虫垂炎のみを想定した手術をするのは、ややリスクがあると思われます。

・まずは点滴/抗生物質で炎症を抑え、
・盲腸の腫れが引いた段階であらためて大腸内視鏡検査を行ない、
・気になるものが何かのかを確認してから、
・あらためて治療方針を決めたい…

と思います。

 

先生から上記説明を受け、妻と私はこれを了承。

一旦自宅に帰ることにしました。

 

病室のお義父さんを見舞ってから自宅に帰ると、妻は東京にいる兄(私のお義兄さん)に連絡。

現在の状況を共有しました。

 

そして翌日。

事務所で仕事をしていると、妻から以下の電話。

「今、病院から電話があった。12時に病院に来てほしいんだって」…

 

「えっ、どうしたのかな」

 

 

急遽呼び出されて病院に行ってみると、担当医の先生より以下の説明がありました。

 

抗生物質が効果を示さず、かつ、盲腸の腫れがひどくなってきました。

すでに血液中にも急性虫垂炎の原因となる病原体が侵入しており、本人の容体も悪くなってきています。

もはや猶予はないので、今日の夕方から緊急で手術をしたいと考えます。

実施する手術ですが、盲腸上部の気になる箇所に関連して、いくつか事前に想定しておくことがあり、それに従ってシナリオを変化させながら手術をしようと思います。

・まずは、急性虫垂炎を想定して手術を開始する
・手術中、盲腸の上にある部分をチェックする
・そこに「何かある」と判断したとき
 →範囲を広げて切除し、大腸と小腸を縫合する
・(他にもいくつかの想定があるとのことで…)
 都合4つのシナリオを準備して手術に臨む

 

説明を受け、妻も私もこれを了承。

そしてすぐに、妻からお義兄さんに連絡。

連絡を受けたお義兄さんは、すぐに金沢に来るとのこと。

 

夕方になり、お義兄さんが金沢に到着。

その時点で病院に電話で確認すると、すでにお義父さんの手術は開始しているとのこと。

また、手術が終わったら担当医の先生が電話をくれるとの話もありました。

 

そして夜8時。

担当医の先生から妻の携帯に、以下の電話がありました。

 

手術は無事成功しました。

手術の内容/シナリオとしては、急性虫垂炎のみの対応で済みました。

盲腸上部の気になるものは、腫れた盲腸の一部が破れ、そこから飛び出していた膿でした。

とりあえず、想定していた中では、最も軽い範囲でした。

 

それを聞いて、妻も、お義兄さんも、私も、本当にホッと胸を撫で下ろしました。

 

 

98歳になるお義父さんなので、寝たきりになることを予防するために、手術直後ではありますが、これから毎日歩いたり上半身を起こすリハビリを行うそうです。

 

お義父さんはこれまで、高齢にも関わらず、

・79歳で前立腺肥大の手術
・81歳で大腸がん(横行結腸)
・88歳で心臓の僧帽弁置換手術

という数々の手術を受けてきました。

そのお義父さんなら、きっと辛いリハビリも乗り越えてくれるでしょう。

 

 

しばらく入院しないといけないお義父さん。

それでも、(考えたくないような悪いことも含め…)いくつか想定されるシナリオの中では、最も軽い(影響が小さい)内容で済みました。

その幸運に感謝しながら、今週を過ごしたいと思います。

ボッチの夜…

今日は、6月24日(火)。

昨日 23日(月)は、浜松から帰省していたむぎーさんとミニライドに行き、その後夕食を共にする予定でした。

しかし北陸は、日曜日の午後から無常の雨が降り、ミニライドは中止に。

 

加えて、22日(日)が先週亡くなった叔母さん(「覚悟はしていたものの…」)の初七日。

初七日とはいっても、特別な法要がある訳ではないのですが、

「お宅に伺ってお参りだけでもしよう」…

そう思っていました。

 

まさに初七日にあたる日曜日にお参りに行っても良かったのですが、19日(木)/20日(金)の通夜/葬儀は、極々限られた身内のみが参加して執り行われたもの。

このため、この週末の土曜日/日曜日には、新聞のお悔やみ欄で訃報を知った友人・ご近所の方々が自宅にお参りにくるかもしれない…

ということで、1日遅れにはなりますが、週が明けた月曜日にお参りに伺うことにしました。

 

夕方、叔母さんのお宅に伺うと、県外に出て家庭を持っている長男の方(私のいとこ)が出迎えてくれました。

 

親が亡くなると、市役所、年金事務所、銀行…etc、その他諸々の手続きが必要になります。

いとこの彼は、とりあえず今週いっぱい仕事を休んで金沢に残り、可能な限り必要な手続きを終わらせることにしたそうです。

実はこの日も、日中にお参りに伺うつもりでいたのですが、

「手続きのために家を空けており、夕方まで戻らない」

との連絡があり、急遽、時間を夕方に変更しました。

 

まあ、そうですよね。

私も、父や母が亡くなった後の各種手続きのために、役所の窓口に何度も足を運んだり、父/母名義の銀行口座の処置のために何代か遡っての戸籍(原戸籍って言うんでしたかね…)を取ったり…等々。

その手のことで、かなりの時間を取られた記憶があります。

 

 

お参りをさせてもらったあと、いとこである彼と、少し話しをした私。

彼にとって実家であるとは言え、通夜/葬儀を終え、家族や親族が、それぞれ県外の拠点に帰ってしまった週明け月曜日。

その夜に、一人ぼっちで食事をするのも侘しいか…

 

そう思ったので、私は、缶ビール/ハイボール、惣菜/おつまみなどを色々買い込んで行きました。

しかし、話の中で、

「翌日も、朝から色々な窓口に行かなきゃならない」

ことが判明。

 

あー、そうだよね…

ということで、ここも予定を急遽変更。

買い込んだ袋を彼に渡して、

「これ、差し入れ。スーパーの惣菜だけど、ゆっくり食べて飲んで」

と伝えて帰ってきました。

 

 

ボッチの夜。

いとこの彼も、叔母さん(彼にとっては母親)を思い出しながら、飲んでいるでしょうか。

この日は、そんな気分で、私も自宅で飲みました。

 

献杯。

本番を迎える…

今日は、6月23日(月)。

昨日 22日(日)は、朝一番から、妻と二人でサツマイモ畑の草刈りを行いました。

…と言っても、サツマイモを植えなかった側の草刈りが中心。

 

先日、有志の会の面々でサツマイモ畑全体の草むしりを行い(「2025年 初草むしり…」)、この草むしりで、畑全体が綺麗になりました。

しかし、ここしばらく暑い天気が続いたことで、草もどんどん成長。

とくに、ちょっと手抜きをした ”サツマイモを植えていない” 側の草の勢いが爆発。

 

「週明け月曜日から、しばらくは雨の天気が続く」…

という予報もあり、雨が降る前日 朝一番での草刈りとなりました。

 

今朝の雨の中で撮影した写真は以下の通り。

 

写真の下半分全体が、草で覆われている状態でした。

そこを、草刈機の ”ヴウォーン!” というけたたましい音を響かせながら、生い茂った草を刈り倒していきます。

 

その向こう側に見える黒マルチは、枝豆を植えた畝の場所。

3列の畝全体にタネを植えたのですが、見ての通り芽が出たのは1割ほど。

今年の枝豆は、非常に貴重なものになりそうです…

 

そしてこちらは、妻が植えた

・ナス 3苗
・サツマイモ(シルクスイート) 10苗

の畝。

 

こちらも、どこに苗があるのか分からないほどの状態でした。

その草だらけになった畝を妻が手で草むしりを実施。

その結果、写真の通り綺麗な状態になりました。

 

 

 

雨が降る直前の昨日は、朝一番から気温が上昇。

この日金沢では、今年初の猛暑日となったようです。

しかし、週明けからは一転、雨模様の日が続く予報となっています。

 

暑い中、せっかく妻と一緒に草刈りをした畑ですが、今週は気温が上がって雨も降り、いよいよ梅雨本番。

気温と雨につられて、草の勢いもこれからが本番です。

 

「7月になったら、サツマイモ畑全体の2回目の草むしりを行う必要があるな」…

それを覚悟した1日となりました。

 

 

追伸

2時間ほどの草刈りで、私の腰は悲鳴をあげました。

腰の痛み/ダルさはもちろん、太腿(ふともも)が痺れたような感じになり、膝(ひざ)の力が抜けてよろけるときもあります。

うーん、いよいよ整形外科で診てもらった方がいいのかな…

暴走を防ぐ…

今日は、6月21日(土)。

昨年 2024年の晩秋から続く、納屋前の”犬のウ○チ放置事件”(「怒りに震えて…」)。

剛を煮やした私は、お蔵入りとなっていたGopro HERO7 Blackを引っ張り出し、朝夕5〜6時間ほど、納屋前の撮影/監視を始めました(「再活躍の場…」)。

 

今のところ、事件は再発していません。

が…

最近の、日本全体での気温上昇に合わせるように、監視カメラとして利用しているGoproの強制停止が発生。

録画開始後、30分〜1時間ほどで録画が止まってしまう現象が発生するようになりました。

 

Gopro HERO7は、1080p60のHDの解像度に落として録画すると、内蔵しているリチウムイオンバッテリーだけだと45分〜60分しか持ちません。

このため当初は、拡張バッテリーを接続して時間を延ばす工夫をしていました。

拡張バッテリーは、Goproの外部電源スロットに差して使用するのですが、この拡張電源を使用すると、Goproは発熱量が多くなる特徴があり、涼しい環境で使わない限り、経験上、かなりの頻度で強制停止が発生しました(「Gopro 謎の現象…その2」)。

その後、拡張バッテリーを使うことはやめて、内蔵バッテリーをたくさん用意する作戦に変更し、強制停止の発生を防いできました(「Gopro 謎の現象…その4」)。

 

ロードバイクでのライドであれば、ある程度走った時点で自分で内蔵バッテリーを交換し、結果として長い時間の録画を行うことができます。

ただ今回のように、監視カメラとしてGoproを利用するケースでは、必要となる3時間程度の録画時間の間、Goproは無人の環境で放置しておくことにな入ります。

つまり、途中で人間が介入しバッテリーを交換する…ということができません。

このため、USBケーブルを接続して、外部から電源を供給しています。

 

ところが、このUSBケーブルを指すところが、問題のGoproの外部電源スロット。

つまり発熱量が多くなり、強制停止が発生しやすくなることになってしまいます。

 

うーん、困った…

 

 

監視カメラとして利用するためには、Goproの内蔵バッテリー1つでは、稼働時間が足りません。

それを補うため、外部電源スロットを利用してUSBから電源を供給することにしましたが、その結果として、発熱による強制停止が発生。

 

「発熱量を減らして熱暴走を防ぐには、外部からの電源供給をやめればいい」

それは分かっているのですが、それだと今度は、3時間程度の録画/監視時間が達成できません。

「あー、問題を解決するための上手い方法がないなぁ」…

そう思っていました。

 

が、ちょっとしたことを思いつきました。

発熱による強制停止は、内蔵バッテリーの熱暴走/破壊を防止するためのもの…ということだったはず。

ということは、

・最初から内蔵バッテリーを外し、
・外部電源のみで稼働させるのであれば、
・バッテリーの熱暴走を防ぐ目的の強制停止は
・回避できるしないのではないか…

そんな思いつきです。

 

ということで、さっそく試してみました。

 

上の写真はすでに40分程度、録画/監視をした状態で一旦録画を止め、その際に表示された液晶画面を撮ったものです。

右上に ”バッテリーなし” と表示されている通り、内蔵バッテリーは外しています。

 

この録画方法であれば、バッテリーの熱暴走/破壊予防の強制停止は発生しないかも…

その期待を込めて、この方法での録画/監視を行ってみます。

 

 

さて、話は変わって…

 

Goproのバッテリーだけではなく、私の体重もやや暴走気味。

人生最高体重を更新しながら、現在も成長を続けています。

 

この成長を止めて暴走を防ぐには…

そう、生活習慣(とくに食べ物…というか飲み物)の改善しかありません。

しかし、これがなかなかに難しい。

 

これについては、妻だけではなく長女、次女、長男たちにも説教されました。

うーん、ちょっと考えてみようなか…

それぞれの持ち味…

今日は、6月20日(金)。

昨日 19日(木)は、先日亡くなった叔母さん(「覚悟はしていたものの…」)のお通夜が営まれ、家族全員で参列をしてきました。

 

さて、私が子どもの頃のこと。

親戚で不幸があると、父や母に連れられて、姉と私も一緒にお参りに行くことがありました。

そんなとき、父は、親戚/一族郎党の中で頼りにされている存在だったらしく、お通夜/葬儀全体の段取りから、食事の内容、お坊さんに渡すお布施の額…などなど、細かい点に至るまで、色々と相談を受けていたような記憶があります。

 

父が小学校に入る前。

父の父(私にとっては祖父)は、日中戦争、そして第二次世界大戦に出兵しています。

なので父は、自分の父親についての記憶はほとんど無かったそうです。

 

そんな第二次正解対戦が終戦となる少し前。

父が小学校低学年だったころに、戦地で病気になった自身の父親が帰ってました。

しかし治療の甲斐なく、現在の金沢大学附属病院でそのまま亡くなりました。

 

その後迎える日本の敗戦。

そして、それに続いていく戦後の混乱期〜日本の復興。

そんな時代を、父は、小学生/中学生/高校生として過ごしています。

父としては、おそらく自分の友人たちと同じように若者らしく戦後の自由を謳歌し、自分自身のやりたいことを追求したかっただろう…

と思います。

しかし父は、自分の父親が亡くなったことにより、残された母(私の祖母)、妹(私の叔母)、そして祖父(私の曽祖父)が暮らしていく ”家” を支える必要がありました。

経済的に頼れる親戚/人がいない状況で、父は、今で言うアルバイトで家計を助け、社会に出てからもダブルワーク/トリプルワークをこなし、現金収入が乏しい家計を支えてきました。

周囲からは寡黙な人との印象を持たれており、積極的に何か言うタイプではない父でしたが、家を支えることで苦労を重ねたことから、親戚/一族郎党からは ”頼りになる大黒柱” として認識されていったのだと思います。

 

 

そんな父が亡くなり、そして母も亡くなった現在。

親戚/一族郎党が集まってみると、年齢だけを見れば、私たちの年代が年長者になりつつあります。

しかし、父の息子ではありますが、私自身は、親戚/一族郎党の中で、父ほど頼りにされている存在ではありません。

 

父が亡くなったときに初めて、私は ”喪主” というものを経験しました。

当時、一族郎党のいわゆる ”重鎮” として私、の母方の叔父さんがいました。

私が初めて喪主を務めることに際し、その方には相談役として通夜/葬儀全般についてサポートを受けるすることになりました。

だたその方は、(失礼な言い方になるかもしれませんが…)相談役というよりも、何かにつけご自身の考えを押し付けてくるような感じを私は受けていました。

ちょっと申し訳なかったのですが、このときの私は、それを受け止められませんでした。

その方とは、花輪を飾る順番、焼香の順番、弔電を披露する順番など、細かい点も含めて話し合いをしましたが、結局、それら細かい点を含めてすべて私が考えた内容で執り行いました。

この際その方には、”こいつは父親と違い、頑固なやつだな” との印象を持たれたと思います。

 

その後母が亡くなり、父のときと同様、私が喪主として通夜/葬儀を務めました。

その際にも、やはりその方に相談役をお願いしました。

しかし父のときとは違い、母のときは ”お前のやりたいようにやればいい” というだけで、いっさいの意見/指示はありませんでした。

 

そして、さらにその後。

父が建てた家を壊して引っ越すなど、私の生活環境には色々な変化がありました。

それら変化を実施しようとする際に、再びその方から叱咤激励を受けることがありました。

しかしこのときも、私は、自分自身の考えに基づいて、様々なことを決めていきました。

(実際に家を引っ越して以降は、その方からの叱咤激励もなくなってしまいましたが…)

 

 

たとえ親戚/一族郎党の重鎮の方からであったとしても、自身が納得できないこと/考え方が異なることを色々と指図されるのはイヤなものです。

私はとくにそうなのかもしれません。

 

また、親戚/一族郎党の方々からみると、私の発言や行動は、寡黙で真面目/謙虚だった父のそれと違って、

「頑固で、しかも浅はか(内容が軽い)」…

と受け止められているような気もします。

ちょっと悔しいのが本音ですが、まあその通りなので、反論のしようがありません。

 

 

だからどうということはありませんが、まあ、それも

「それぞれのキャラクター/持ち味」…

ということなんでしょうか。

 

 

そんな中でも、亡くなった叔母さん(そして、すでに亡くなっている叔父さんも…)は、私が ”自分の兄の息子” ということもあってか、何かと私、そして私の家族に気を配ってくれました。

また、自身の子供たちが独立して家を離れてからは、私に相談をしてれることも増えたように思います。

 

その叔母さんのお通夜は、昨日の夜に滞りなく営まれ、今日は葬儀。

今日の葬儀も、家族全員で参列の予定。

 

朗らかだった叔母さんとの会話を思い出しながら、父と私のキャラクター/持ち味の違いについて考えてみる…

そんなことも行いつつ、お世話になった叔母さんのお見送りをしたいと思います。