密かな好意…

今日は、3月18日(火)。

ネットでちょっと調べてみると…

3月18日は、柿本人麻呂、小野小町、和泉式部など、平安時代の歌人として名前を残した人たちの命日とされているそうです。

 

「えー、ホントかなぁ」…

おそらくそれは、”同時代に記された貴族の日記” などの一次資料で確認できるものではないと思います。

とは言え、それを信じている人もいますよね。

まあ、歴史のロマンでしょうか…

 

この3人の中で、私がちょっと感じる部分があるのは、和泉式部という女性の歌人です。

この女性は、”自由奔放に恋に生きた人”。

 

彼女には夫がいましたが、その夫と別れ二人の親王(天皇の息子のこと、二人は兄弟です)と恋仲になりました。

そう書くと不倫の末に親王兄弟にも二股をかけていたのか…と勘違いをするかもしれませんが、そうではありません。

 

まず、夫とは不仲になって別れてしまいました。

そしてその後にお付き合いをしたのが、親王(兄)。

和泉式部は、この親王(兄)のことが大好きでしたが、お付き合いをしている最中に、残念ながら彼は若くして亡くなってしまいます。

 

最愛の親王(兄)を亡くし傷心の和泉式部。

その彼女に優しく寄り添ったのが、亡くなった親王の弟。

その弟も当然ですが親王。

傷心の彼女は親王(弟)にも心を惹かれ、今度は親王(弟)とお付き合いをします。

ところが、この親王(弟)も亡くなってしまう。

 

親王(弟)が亡くなった後、楽しかったころを思い出しながら書いたのが、世に言う ”和泉式部日記”。

さらに後、和泉式部はあらためて夫を持ち、夫の赴任地である丹後国に夫と共に行った…

そんな話を、中学生のときに、当時の国語の先生から聞いたことを思い出しました。

 

 

さて、ここからが本題。

その国語の先生ですが、実は、私が密かに好意を寄せていた方でした。

 

第一印象は、そうですねぇ、岸恵子、または加賀まりこ…という感じでしょうか。

(かなり記憶が美化されているかも…)

私が中学2年のときに同じ中学校に赴任され、その時点で確か27歳だったので私の13歳年上。

13歳も年上の女性でしたが、その先生に非常に惹かれていた…ということを思い出します。

 

 

その先生の授業の進め方も、ちょっと変わっていたように思います。

一応は教科書に従っており、題材の小説や詩、俳句について説明してくれます。

しかしそれだけではなく、題材となっている小説等を書いた作家に関し、教科書を離れて作家自身の人生、あるいは考え方にまつわる話をたくさんしてくれました。

教科書に載っている歌人、俳人、小説家、そして、ときには教科書に載っていない日本文学の作家の人たちも含め、彼ら/彼女らが歩んだ人生、そこから、作品を書いた背景などについても触れていた…

そんな授業だったように思います。

当時の私にとって先生の授業/お話は大変興味深く、それが私がどんどん小説(の文庫本…)を買って読むきっかけになりました。

 

そんな国語の授業の際に、種田山頭火/尾崎放哉という ”ちょっと変わった俳人” の作品について触れる機会がありました。

この二人は、形式に囚われない自由な俳句を作って発表している人たち。

 

この ”形式に囚われない自由な俳句” ということからも想像できるように、これらの俳人は、周囲との摩擦/軋轢を生むことにあまり頓着しないという面を持っています。

まあ、作家って、大概そんなもんかもしれませんけど…

 

その一人、尾崎放哉の代表的な俳句といえば、ご存知の方もいると思いますが、

「咳をしても一人」

です。

 

授業では、

「この句について、自分が思ったことを自由に書いて提出する」

という宿題が出されました。

その際、私は以下のようなことを書いて提出しました。

 

 

尾崎放哉という人は破天荒で、家庭/家族を顧みず、世間から理解されないことや孤独になることを恐れず、自分の信念を貫き俳句の道を進む…そんな人生を送りました。

しかし、信じた道を歩んでいる途中で、胸を病んでしまいました。

当時、胸の病は不治の病気。

死期は近いけれど、流れ着いた山の荒れ寺で一人ぼっち。

寝込んでいる際に咳が出ても、看病をしてくれる人は誰もいません。

自分が求めたこと/招いてしまったことではあるけれど、その孤独感はやはり耐えがたい…

尾崎放哉も、その孤独感に襲われていたのだと思います。

 

 

細かい表現/言い回しは違っているかもしれませんが、私は、概ねそんな内容を書いて提出しました。

それに対して、先生が返してきたコメントは、ちょっと意外な内容。

 

 

尾崎放哉も、あなたが書いたような孤独を感じていたでしょう。

句の解釈としては、もう少し尾崎が自分自身を俯瞰的に見て、”洒落や滑稽な意図を込めている” と評価することが多いかもしれません。

ですが先生自身は、あなたと同じ感想を持っています(人間はそれほど強くない…)。

だた中学生のあなたが、尾崎と同じような孤独を感じている、あるいは理解しているのだとすると、そのことがちょっと心配ですね。

 

 

最後の一文が衝撃的。

それまで学校で出される宿題で、そんなコメントを返す先生に、私は会ったことがありませんでした。

これは、当時の私にとってみると ”一大事”。

 

この ”一大事” 以降、私はことある毎に、ちょっとした詩/短編の小説っぽいもの/読んだ本の感想などを書いて、先生の目に触れるようにしていました。

それは、提出するノートの端だったり、中間/期末テストの解答用紙の裏だったり…

今思えば、先生としては

「オタクで、すごくキモい奴」

と感じていたでしょうねぇ…

いやー、恋は盲目。

先生、すみませんでした。

 

 

”一大事” 以降、私はその先生に ”密かな好意” を抱いていました…

なんて可愛げに表現しましたが、今振り返ってみるとその行動は、”密かな好意” なんてソフトな範囲に収まっていませんね。

ただ、その ”密かな好意” がモチベーションになって、私が日本の文学、特に小説を読むようになったことは事実です。

あらためて、”密かな好意” を抱かせてくれた、中学時代の国語の先生に感謝です。

彼岸の思い出…

今日は、3月17日(月)。

今年 2025年は、今週の木曜日3月20日が春分の日。

この前後3日間を含めた7日は、いわゆる”お彼岸” です。

 

私が子供のころは、彼岸の中日(つまり春分の日/秋分の日)になると、母がぼた餅/おはぎを作ってくれました。

 

小学校低学年までの私は、どちらも ”おはぎ” と呼んでいました。

しかし、ある年の春分の日。

私が餅搗きを手伝っていると、母が、”ぼた餅/おはぎは、同じものだけど、牡丹(ぼたん)と萩(はぎ)の花の名前から、春と秋で呼ばれる名前が違う” ということを教えてくれました。

「へー」

我が家には花札があって、それでよく遊んでいたので、私も牡丹と萩は知っていました。

 

ただ花札だと、牡丹は6月、萩は7月で、ちょっと季節がずれている。

今のカレンダーは、昔の暦から今から2ヶ月ほどズレている…って聞いたから、そんなもんか?

そんなことを思ったことも思い出します。

 

 

母がぼた餅/おはぎを作ってくれた最初の記憶は、60年ほど前のこと。

もちろん当時は、すべて手作り。

小豆を炊いて、前日に粒あんのあんこを作っておきます。

そしてうるち米/もち米を混ぜて炊き、それを ”すりこぎ” で搗(つ)いてお餅にします。

ただし、このとき餅を搗くのは5分〜6分ほどでとどめておくのが我が家の流儀。

”米の粒がまだ残ったままの方が美味しい”…というのが母のポリシーでした。

 

餅が搗き上がったらそれを適度な大きさにちぎります。

その餅に、作った粒あんを周りにまぶして形を整えれば、ぼた餅/おはぎの完成です。

そんな普通のぼた餅/おはぎの他にも、母は粒あんの団子を餅で包み、それにきな粉や黒ゴマをまぶしたものも作ってくれました。

 

母が作ってくれた、ぼた餅/おはぎ、きな粉、黒ゴマの3種類のお餅。

春分の日/秋分の日のお昼には、それを食べるのが楽しみだった…

そんなことを思い出します。

 

 

便利な物はほとんどなく、手抜きができずなんでも手作りしていた時代。

その素朴な手作りのぼた餅/おはぎがとても美味しく、お昼にそれを食べることが楽しみだった。

そんなお彼岸のひとコマを思い出した、今日の朝でした。

帳尻が合う…

今日は、3月15日(土)。

昨日 14日(金)は、先日の投稿で述べた通り、私が主夫生活を送る1日(「間に挟まれて…」)。

妻は不在ですが、次女、長男、そして私の3人分の夕食を作らなければならなりませんでした。

ところが、その日の朝のこと…

 

空は快晴、朝から春を思わせる陽気。

そんな中、のんびり朝食を食べていると、遅れて起きてきた長男が、私の隣に座りながら言いいました。

 

お父さん。

今日は、自転車で学校に行けないから、車で送ってほしい。

それから、学校が終わったらスタジオに行くつもり。

それが終わったら仲間とご飯を食べてくる。

だから、今日は晩御飯は要らない。

 

長男は最近エレキベースを買いました(「今日のところは…」)。

昨日は、学校が終わったらベースを持って貸しスタジオに向い、バンドを組むことにした仲間と、初めての音合わせ/練習をする計画のようです。

 

 

まあ、ベースを持って自転車に乗るのは危ないですし、

「学校まで車で送ってほしい」

というのは良いでしょう。

しかし、

「晩御飯は要らない」

と、(しかも直前/その日の朝になって…)いうのはいただけない。

 

「えー、バカやろー!」

…と思ったのですが、自分が高校生のときも、もしかすると、似たようなものだったかも。

 

私が高校生のころは、土曜日が半ドン。

なので土曜日は、午前中だけでしたが学校の授業がありました。

ただし、午前の授業が終わればあとは自由。

しかも翌日はお休み。

となると、私たち(私…だけ?)は、さながら ”野に放たれた虎”。

当時、金沢の繁華街として栄えていた、武蔵ヶ辻/香林坊/片町/竪町あたりをフラフラしながら友だちとお昼を食べ、家に帰るのは晩御飯の直前になってから。

そんなことが、もしかすると私にもあったかもしれません…

 

現在では半ドンというものはなく、世の中は、学校も含め完全週休二日制。

長男も金曜日の学校/授業が終われば、翌日の土曜日からは二連休。

休前日の学校が終わり、そこでバンド仲間/友だちと一緒に楽しめるのは、それは嬉しいでしょう。

まあ、しょうがない…ですかね。

 

思わず、ちょっと ”お怒りモード” に入りそうになった私。

しかし、昔の自分を振り返って冷静さを取り戻すことができました。

 

カチンと来た顔を、

「ニコッ」

とさせて、とりあえず帳尻だけは合わせておきました…

 

 

とはいえ、晩御飯は次女と私の二人だけ。

「うーん、だとすると、わざわざロールサンドを作るのはちょっと面倒くさいなぁ」

そう思ってしまいました。

 

”面倒くさい” のはイヤだなぁ…

ということで、この日の晩御飯は色々と手を抜いてみることにしました。

 

手抜きとしながら作ったのは、以下の通り。

・フランスパン(バゲット)1本 → 切るだけ
・ホワイトシチュー(市販ルー&冷凍野菜/4皿分)
・ポテトサラダ(惣菜)
・ツナマヨ
・野菜サラダ(カット野菜)
・刺身(マグロ、ブリ)

 

手抜きをしたおかげで、買い出し/調理を含めても、すべてが2時間ほどでおさまりました。

ロールサンドを作ったり、野菜を自分で切って調理を行ったとすると、おそらくこの倍くらいの時間がかかったと思います。

いやー、便利な世の中になってますよね、ホントに。

 

 

サンドイッチにはしませんでしたが、買ってきたフランスパンはスライスして、

・ホワイトシチューと一緒に食べてもよし
・ミニオープンサンド風にポテサラ/ツナマヨ/野菜サラダをのせて食べてもよし

としました。

ここでも、”サンドイッチを作る”…という予定との帳尻を合わせてみました。

 

これらを白ワインと共にのんびり、次女と私で頂きました。

二人だけだったら、この量はちょっと多いかな…

そう思った通り、”ごちそうさま” をしても、刺身以外は余ってしまいました。

 

ただ次女は、その後もワインをチビチビやりながら残ったフランスパンを数切れ食べた模様。

ホワイトシチューその他も、長男が家に帰ってきてから食べたようです。

量は多めになってしまいましたが、結果オーライ。

最終的には帳尻が合いました。

 

昨日は、帳尻合わせがバッチリ…

そんな日になりました。

粗めの多め…

今日は、3月12日(水)。

先日の投稿では、コーヒーの豆を挽くミルについて書きました(「我慢のしどころ…」)。

 

手動木製の ”横回し” のミルから、鉄製の ”縦回し” のミルに買い替えて以来、これを気に入って使ってきた。

しかし最近、手でミルのハンドルを回すことが面倒くさくなってきた。

美味しく淹れることができる状態で、手軽にコーヒー豆を挽く方法はないか…

 

ざっくり、こんな内容でした。

 

コーヒー豆を手軽に挽きたい…

この願いを叶えるために、私はとうとうウルトラCを発動。

 

それがこれです。

 

「なーんだ、ただの電動ミルでしょ」…

そう思ったあなた。

チッチッチッ、最近の電動ミルは凄いんです…

 

まず豆を挽く方法ですが、昔のミルのように ”羽が回って豆を砕く” というやり方ではありません。

 

そう、ちゃんと ”臼(うす)” で挽くんです。

写真のオレンジの下部分が ”臼”。

ここでコーヒー豆を ”本当に挽いている” んです。

 

しかもその ”臼” は取り出して掃除することもできるようになっています。

 

いやー、すごいです…

 

豆を挽く粗さ(細かさ)は、ホッパー部分をクルクル回して設定。

粗さを設定してスイッチをポンとすれば、瞬時にお望みの粗さ(細かさ)のコーヒー豆の出来上がりです。

 

取り扱い説明書には、

「まず、取り外せるプラスチックの各部分を洗え」…

と書いてあります。

 

指示に従って各部を洗い、それを拭いて乾燥。

そして、組み立てるのももどかしく、さっそく使ってみることに。

 

まず、ホッパーに4人分のコーヒー豆を投入。

粗さの設定は、

・最も粗い側の ”フレンチプレス”(煮出してパーコレーターで押す)

から、

・最も細かい側の ”エスプレッソ”

まで、実に40段階の設定ができるようになっています。

私は、やや粗い側よりになる、中粗挽き ”ハンドドリップ” に設定。

その中でも最も細かい側にしました。

 

これでタイマーを40〜50秒に設定してスイッチポン。

すると約40秒で、4人分の豆を挽くことができました。

 

中粗挽きの中でも最も細かい側に設定しましたが、それでも、

「自分で挽いていたより少し粗いかな…」

という感じ。

 

とりあえずこれでコーヒーを淹れてみたところ…

いやー、美味しいです。

 

手動のミルで挽いたよりも、豆が ”少し粗め” になったことから、雑味がなくてスッキリした味になったような気がします。

ただし、豆が粗くなった分、淹れたコーヒーが少し薄く感じます。

 

そうか、粗めで挽く代わりに、投入するコーヒー豆の量を多めにすればいいのか…

昔から、コーヒー豆は

「粗めの多め」…

と言われていたことを、久々に思い出しました。

”粗めの多め” を味わいたい方、ぜひこちらまでお越しください。

スッキリした美味しいコーヒーをご馳走したいと思います。

 

ちなみに、現在在庫している豆は、マンデリンとグァテマラをそれぞれ300g。

もしかすると、これにモカが追加される…かもしれません。

 

皆さん、ご遠慮なくどうぞ。

先送りの功罪…

今日は、3月11日(水)。

14年前の今日、東日本大震災が発生しました。

発生したのはマグニチュード9.0、最大震度7の大地震。

地震はもちろんですが、その後発生した津波による被害/犠牲も大きいものでした。

 

また、発生した被害/犠牲は、地震と津波が直接作用したものだけではありませんでした。

福島県の原子力発電所を大津波が襲ったことで、発電所全体が全電源喪失。

それが原因となって、原子炉での ”メルトダウン/水素爆発” 事故が発生。

この原子炉事故よる影響は非常に大きく、現在に至るまで、周辺の市町村の復旧/復興を困難なものにしています。

 

東京電力の福島第一原子力発電所には、1号機から6号機まで6つの原子炉があります。

このうち1号機、2号機、3号機がメルトダウンを起こし、さらに1号機と3号機で水素爆発が発生しました。

 

2号機も、1号機/3号機と同様メルトダウンになったのですが、水素爆発はしませんでした。

ただこれは、他の原子炉の水素爆発で2号機建屋の壁/屋根が吹っ飛んでしまい、2号機の建屋に水素が溜まらなかっただけ。

なので、全電源喪失/メルトダウン/放射性物質の飛散…という深刻さは、1号機/2号機/3号機とも同じ状況でした。

 

現在東京電力では、5号機と6号機の2つは実験用として残すことを検討していますが、1号機〜4号機の4つは廃炉とする方針です。

ただ、この ”廃炉” にする作業/行程も、一筋縄ではいかないものなんですけどね…

 

原子力発電所がすべての電源を喪失した原因は、発電所の全域が10m、場所によっては15mを超える津波に襲われたことです。

  

発生した大地震の影響で、まず外部から取り入れている商用電源がすべて失われました。

ただ実はこのタイミングで、非常用ディーゼル発電機は稼働しました。

しかしそこに、大津波が襲いかかります。

大津波は、発電所にある様々な安全装置/重要設備を破壊。

そして、稼働していた非常用ディーゼル発電機まで浸水/破壊を受けてしまった…

これが致命でした。

 

地震発生直後は、非常用ディーゼル発電機が稼働しており、その電気を使って、原子炉に冷却水を送るポンプが動いていました。

しかし津波の被害により、ディーゼル発電機が停止…からの冷却水のポンプが停止。

これにより、原子炉内の燃料棒を冷やすことができなくなり、その結果メルトダウン/水素爆発の事故が発生してしまいました。

 

とはいえ、原子力発電所を設計した際に地震や津波の発生が想定されていなかった訳ではありません。

もちろん、ある程度の規模の地震/津波を想定した上で、施設/設備の設計が行われていました

ただし、設計時に想定した津波の高さは6mほど。

うーん、いかにも低いです。

 

結果論ではなく、この津波の高さの想定って、素人の私から見ても低すぎる…

そう感じます。

というのも、江戸の昔から、東北地方、とくに三陸沖では大地震/大津波の被害が度々発生しており、

「発生した津波の高さは、山のお宮の鳥居の基礎まで届いた」

そんな言い伝えがあることは、私でも知っていたりします。

そして、その”お宮の鳥居の基礎” の高さは、じつに海抜20m以上…

 

その言い伝え通り、東日本大震災の際に発生した津波は非常に大きく、福島第一発電所を襲った津波は、東京電力が想定していた6mの2倍以上の高さでした…

 

 

「想定した津波の高さが低すぎた/発生した津波の高さが想定を超えていた」…

これはその通りなのですが、真実はそんな単純ではないようです。

 

 

実は東京電力では、2008年の時点で、すでに地震により発生する津波の高さが、15mを超える可能性があることを認識していました。

ただ、その対応を ”先送り” してしまった…

そんな経緯があったことが、後に世間に知られることになりました。

 

2008年に東京電力の ”子会社” が地震で発生する津波の高さの再計算を行い、

「最大で15.7mの津波に襲われる可能性がある」

ということを、東京電力に報告していました。

 

上記の津波の高さの計算は、日本政府の地震調査研究本部が出している長期評価というデータに基づいて行われました。

そして、”2008年時点で東京電力は把握していた” という事実は、2012年〜2013年の東京地検の捜査により判明。

その後、2017年〜2019年に開催された公判の捜査記録として、この事実が公開されます。

その時点で初めて、一般の人々が、上記の経緯を知ることになりました。

 

実は東京電力では、2008年に子会社が行った津波の再評価結果を受け、本店の土木関係部門が、15.7mの津波を想定した防波堤/防潮堤の建設工事の実施を検討しました。

しかし、経営層/原子力関係部門がこれを ”先送り” する判断を行い、その結果、15.7mの津波を想定した防波堤/防潮堤の建設は行われなかった…

そんな経緯があったんです。

 

「悪い知らせや情報ほど、早く報告/対処すべき」

これが、私が社会人になって学んだ最も重要なことのひとつです。

東京電力のお偉いさんは、私でも学んでいるような教訓/鉄則を、学んでいなかったんでしょうか…

 

 

2017年〜2019年には、東京電力が ”先送り” との判断をしたことの刑事責任を問う裁判が行われました。

この裁判では、当時の経営陣3人が起訴されましたが全員が無罪となっており、その判決が確定したように思います。

 

”先送り” をしたことについて刑事責任を問うことができるのか…

正直言って私には分かりません。

しかしその有罪/無罪はともかく、

・東京電力のお偉いさんともあろう方が、
・安全上の重要な判断を ”先送り” にしてしまったことで、
・地震により発生した津波から発電所を守ることができず、
・大きな原発事故が発生してしまった…

これは、”その通り” という印象です。

ということは、刑事責任には問うことはできなくても、

・”先送り” をしたことの道義的責任はあり、
・それは民事上の不法行為に該当する…

つまり民事裁判を行えば、

・東京電力のお偉いさんにも、
・事故により発生した損害の、
・賠償責任を認めてもらえる可能性がある…

と感じます。

いや、そんな裁判をするかどうか、そこはまた別の話ですけど…

 

地震で発生した津波が6m以下だったら、この原発事故は起きませんでした。

そのときは東京電力、そして ”先送り” した経営陣も、

「良くやった/いい判断だった」

と褒められたかもしれません。

しかし現実は、そうではありませんでした。

 

どんな不都合なことでも、どんなに不愉快なことでも、そこから目をそらさず判断を ”先送り” にしない。

その覚悟/勇気を持つ。

それを噛み締める3月11日にしたいと思います。